創業までの道程
弊社は、今から50年以上も前、府中の地に誕生しました。
当時、初めて頂いたご依頼が、ご近所のお宅の「トイレ改修工事」。
今でもその時の感動は忘れません。どんなに時代が変わろうとも、弊社の家づくりの原点はここにあります。
「ずっと末永く、お客様の近くにいます。」
少年期
木との出会い
私は、新潟県柏崎市の生まれです。
小学生の時代、冬になると実家には5~6人の若い衆が居て、山に木を切りに出かけていました。10歳だった私もよく同行し、「算、おまえもやるか!」などと言われ、興味本位で直径1m20cmもある大木を雪の中で倒していました。
大きな木が白い雪の上に、大きな音をたてて倒れて行く時の感動と、切り口から漂う木の香りには何とも言えない心地よさを感じたものでした。
やるしかない。
父は私が12歳の時に結核を患い、長期療養を余議なくされました。
昨日までの幸せの日々が一転し、明日からの生活もままならない状態の中、中学を卒業し、自分の好きな建築屋になる為、まずは大工を志ました。
大きな木が白い雪の上に、大きな音をたてて倒れて行く時の感動と、切り口から漂う木の香りには何とも言えない心地よさを感じたものでした。
しかし、15歳の大工の弟子では、月に小遣い程度のお金しか貰えない時代です。
やむなく土方仕事に身を置き、春、夏、秋と地元で仕事をし、冬は出稼ぎで富山県の神通川発電所工事など、お金になるところであれば何処へでも行ったものです。
建築従事
建築屋への想いを貫く
出稼ぎから帰った17歳の春、大工さんへの夢を捨て切れず、地元の建築屋さん(現、第一建築合資会社)の親方のところへ相談に行き弟子入りを志願。家族の生活もあるので「小遣い銭では困ります。」と、一生懸命働く事を条件に日給で弟子にしてもらいました。
冬になると積雪のため、仕事が無くなるのは建築業も例外ではありませんでした。私も、小嶋家の親戚筋で、千代田内幸町で建設会社の専務をしていた方を頼り、出稼ぎとしてお世話になることになりました。会社の社長は宮内庁で課長を務められた方で、宮内庁や関東財務局等の仕事が多く請け負っていました。
当時24歳だった私は木造の仕事が好きでしたので、関東財務局職員寮の仕事を担当させて頂きました。柏崎地方や東北地方から大工職人を大勢集めて工事を進めていきました。現在で言う「現場監督」のような仕事です。
そんな努力が認められてか、年間を通して会社の仕事をするように勧められ、以後、東京で働く事となりました。
出会い
お見合い「出会い」
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▲ 昭和38年 結婚
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▲ オートバイで現場廻り
お見合い「出会い」
お見合い相手との最初の出会いは私が25歳、彼女が21歳の時でした。
彼女は当時、病院に住込みで勤務しており、なかなか時間が取れない為、親方をオートバイの後ろ乗せ、私の方から会いに向かいました。病院に到着すると彼女が出てきたのですが「先生には内緒にしているので、外でしか話はできません。」とのこと。目立たぬよう、病院の外庭まで移動すると、親方は気をきかせ「この人が伊藤清子さんだ。後は二人で話しなさい、俺は帰る」と言ってその場を後にしました。病院の外庭は暗く、院内からの明かりが、かすかに顔を照らす程度、顔もよくわからない状況でしたが話をしているうちに「この人となら一緒になっても良いな!」と感じました。一目惚れではなく、「人身惚れ」です。2回目に会った時、「こんなに美人だったのか」と、改めて惚れ直したのを覚えています。
自分の想いと、人生のチャンス
杉並の成宗に住まいを置き、様々の所で仕事をこなしていく中、昭和39年に長男が生まれました。子供の将来を考え、安定した場所で仕事をしたいと思っていた矢先、田舎の知人から、「府中市新町に自宅を新築して欲しい」との依頼が。さらに新築しても5年間は住まないので、私に、「住まないか?」とのこと。この事がきっかけで府中に引っ越す事になりました。(この地が小嶋工務店発祥の地となる)
世の中はわからないものです。私が府中に住むようになって間もなく、大変お世話になっていた会社が倒産し、私も、大勢いた職人数名を残し辞めてもらう事になりました。
これが独立のきっかけで、昭和40年7月に小嶋工務店を旗揚げしました。その時は、私と妻、弟子3人の計5人でのスタート。不安も多かった独立ですが、創業する時に自分なりに誓ったことが3つあります。
▲ 昭和39年 長男誕生
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誓い01
下請けは
やらない。 -
誓い02
丈夫な建物を
造る。 -
誓い03
約束を守り、
人に迷惑を
かけない。
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▲ 冬の柏崎
そんな事を誓いながら始めた小嶋工務店も、10日が経ち、20日が経っても、仕事の依頼は無く、「何とかしなくては」と考えていた矢先、隣の家の奥様から「トイレの調子が良くないので見てください」と言われ、初めてのお仕事を依頼されました。
この時は、嬉しくて涙を流しながら、皆で抱き合ったのを覚えています。
あまり大きな声では言えませんが、小嶋工務店、創業第1号のお仕事は、「トイレの修理」で、頂いた代金も千円であったと、今でも思っています。 見知らぬ土地で、大勢の人が出会い、助けて頂きながら「株式会社小嶋工務店」も創業50年を超えました。
発展へのステップ
創業三年目になる頃には「小嶋工務店は真面目で良い仕事をする」と言われるようになり、仕事も多くなってきました。
自宅兼作業場の庭先では手狭になってきた為、仕事場の為の土地を探し始め此処(現在の本社所在地)に決め昭和43年に100坪を1600万円で購入しました。
有限会社から、株式会社へ
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▲ 当時の事務所
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▼ ED工法の展示場
有限会社から、株式会社へ
昭和43年に小金井市前原町に事業所を移し、その年に有限会社小嶋工務店を設立しました。購入した100坪の土地に16坪の事務所と作業所を造り、妻が事務と電話番をして、私は営業と現場管理をしておりました。増改築を含め八ヶ所の現場と営業を一人でやっていましたが、当時、大変だとは思いませんでした。そんな努力の甲斐か、仕事は自然に多くなって来ましたので、組織作りの事もあり、昭和46年に株式会社小嶋工務店に改称いたしました。翌47年から、地元での信用力を付ける為関係官庁の指名入札への参加も始めておりました。
創業10年目頃の飛躍
昭和47年 | 建築業界で初めての15年保証制度を開始。 |
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昭和49年 | 本社社屋を建て替え、1階に室内展示場をオープン。 |
昭和51年 | 多摩市桜ヶ丘「京王線聖蹟桜ヶ丘駅」に初めての営業所を開設。同年、本社隣に(株)小嶋産業を設立。(不動産事業) |
昭和52年 | 武蔵村山市榎に土地300坪、建物延床面積600坪、新築同様の工場物件購入当社、木材加工工場として稼働。 |
量産高品質を目指して
ある日、「大工さんが墨付けをしなくても家が建つ」そんな方法があることを耳にしました。早速調べてみると、それは機械(プレカットマシーン)によるものでしたが、まだ現存せず、これから開発するとのことでした。機械は1台8000万円もの高額で、納期まで1年はかかるとのこと。しかし、何としてもこの機械を入手したい気持ちでいっぱいでした。
元来、木造の建物は大工さんが墨を付け刻む(キザム)ことで家を建てていましたが、この工法は機械で木材をあらかじめ加工して使用するので、熟練の大工さんでなくても家が建てられるとの事です。当時の弊社が求めていたのは、「自由設計で高精密度のプレカットが出来る機械」。これらの条件で、静岡県の宮川鉄工様にお願いし、数十回に及ぶ打合せと1年の歳月をかけ、弊社で希望する機械を作って頂きました。
大工さんには、建てた後の造作工事の仕事をお願いします」と言うと「俺たちは大工だ、墨付けをして家を造るのが俺たちの仕事だ」との弁。技術力のある大工さん達の言う事なので大変困りました。私も大工職だったので彼らの気持はよく理解できます。しかし、ここまで来て退き返すことは出来ません、高精密度の製品を加工するには、大工さんより機械加工の方が数倍効率が良いと考えておりました。時代の変化の話や、機械加工された製品を見せ、ようやく大工さん達にも納得してもらい機械加工を進めていきました。
その時のキャッチフレーズが、「1000分の1ミリの誤差も無い小嶋の加工」当時は他社には出来なかった製品なので、私も自信を持ってお客さんにアピールしたものでした。
15年保証の充実
雪国生まれの私は、新潟での修業時代から木造住宅は50年や100年は使えるものと思っておりましたが、東京に来て建物の構造があまりにもチャチなのに驚きました。雪国の家は雪の重みに耐えなくてはならないのでとても頑丈です。
創業当時から、丈夫な建物を造るのが私の信念でしたので、「家造りの一番大事な構造部材を、自社工場の機械で加工するということは、住まいを、自信を持って保証できる。」そんな思いの中、当時、何処のハウスメーカーも行っていない「15年保証書」を更に充実致しました。
お陰様で以後35年間4000棟に及ぶ建物の保証をさせて頂いておりますが、構造体でお客様にご迷惑をおかけした事は一度ございません。
東京の家づくりから、
森を育てる。小嶋工務店。
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