history

小嶋工務店の歴史

1965年に創立し、東京 多摩の地に誕生しました。
これまでに4,500棟もの建築のご依頼をいただき、
1棟1棟お客様にお引き渡しをする時の感動は忘れません。
ずっと末永く、お客様の近くにある地域の工務店、
弊社の家づくりの原点はここにあります。

写真:小嶋工務店の歩み

prologue

1937

少年と、木との出会い。

1937年、創業者である小嶋算(こじまかずえ)は新潟県柏崎市に生まれました。小学生の時代、冬になると実家には5~6人の若い衆が居て、よく山に木を伐りに出かけていました。

当時10歳の算はよく同行し、「算、おまえもやるか!」と言われ、興味本位で直径1m20cmもある大木を雪の中で倒していたそうです。

大きな木が白い雪の上に、大きな音を立てて倒れて行く時の感動と、切り口から漂う木の香りには何とも言えない心地よさを感じたと言います。

写真:木との出会い

やるしかないと決意。

算が12歳の時に父は結核を患い、長期療養を余議なくされました。

昨日までの幸せの日々が一転し、明日からの生活もままならない状態の中、中学を卒業し、自分の好きな建築屋になる為、大工を志したのです。

しかし、15歳の大工の弟子では、月に小遣い程度のお金しか貰えない。

やむなく土方仕事に身を置き、春、夏、秋と地元で仕事をし、冬は出稼ぎで富山県の神通川発電所工事など、お金になる仕事があれば何処へでも飛んで行きました。

写真:土方仕事

1954

建築屋への想いを貫く。

17歳の春、大工の夢を捨て切れず、地元の建築屋さん(現:第一建築合資会社)へ相談に行き、弟子入りを志願しました。家族の生活もあるので「小遣い銭では困ります。一生懸命励みます。」と懇願し、日給で弟子にさせていただくことが決まったのです。

冬になると積雪のため、仕事が無くなるのは建築業も例外ではなかった。そんな時、小嶋家の親戚筋で千代田内幸町で建設会社の専務をしていた方を頼り、出稼ぎとしてお世話になることになりました。会社の社長は宮内庁で課長を務められていた経歴もあり、宮内庁や関東財務局等の仕事を多く請け負っていました。

24歳になり、木造の仕事が好きな算は、関東財務局職員寮の仕事を担当、柏崎地方や東北地方から大工職人を大勢集めて工事を進めていった。現在で言う「現場監督」のような仕事でした。

そんな努力と功績が認められ、年間を通して会社の仕事をするように勧められ、東京で働く事となりました。

写真:建築屋への想いを貫く。写真:建築屋への想いを貫く。
写真:やるしかないと決意。

一生のパートナーとなる、
運命の「出会い」。

25歳になった算は、周囲からお見合いを勧められました。お会いすることになったのは21歳の女性。

彼女は当時、病院に住み込みで勤務しており、なかなか時間が取れない為、親方をオートバイの後ろ乗せ、彼女に会いに出向いていたそうです。病院に到着すると彼女が出てきてこう言います。「先生には内緒にしているので、外でしか話はできません。」これが初顔合わせでした。

目立たぬよう、病院の外庭まで移動すると、親方は気を利かせて「この人が伊藤清子さんか。後は二人で話しなさい、俺は帰るよ」と言ってその場を後にしました。

病院の外庭は暗く、院内からの明かりが、かすかに顔を照らす程度、顔もよくわからない状況でしたが、話をしているうちに算は、「この人となら一緒になっても良いな」と感じたそうです。一目惚れではなく、「人身惚れ」と話します。2回目に会った時、「こんなに美人だったのか」と、改めて惚れ直したと照れくさそうに話してくれました。

写真:一生のパートナーとなる、運命の「出会い」。

initial period

1965

府中にて、小嶋工務店創業に込めた3つの誓い。

杉並の成宗に住まいを置き、様々な所で仕事をこなしていく中、1964年(昭和39年)に長男が生まれました。子供の将来を考え、安定した場所で仕事をしたいと思っていた矢先、知人から「府中市新町に自宅を新築して欲しい」との依頼が舞い込んできました。

さらに新築しても5年間は住まないという事情のようで、算に「住まないか?」と尋ねました。この事がきっかけで府中に引っ越す事になりました。そしてこの地が小嶋工務店発祥の地となりました。

府中に住むようになって、順風満帆とも思える日々を過ごして間もなく、大変お世話になっていた会社が倒産してしまいました。算を含め大勢いた職人は辞めてもらう事になった。

これが独立のきっかけで、1965年(昭和40年)7月に小嶋工務店を旗揚げしました。算と妻、弟子3人の計5人でのスタート。不安も多かった独立だったと振り返り、創業する時に誓ったことが3つありました。

写真:社屋

創業時の3つの誓い

  • promise.1

    下請けは
    やらない。

  • promise.2

    丈夫な建物を
    造る

  • promise.3

    約束を守り
    人に迷惑を
    かけない。

初めての仕事は
隣家のトイレ修理。

大勢の大工・職人と離れ離れになり、職を失うということがどれほど辛いことなのか、そんな苦労はもうしたくないという思いから、元請けとして仕事をいただけるようになることを誓ったのです。

そんな事を誓いながら始めた小嶋工務店も、10日が経ち、20日が経っても、仕事の依頼は無く、「何とかしなくては...」と悩んでいた時、隣の家の奥様から「トイレの調子が良くないので見てください」と相談を受けました。これが小嶋工務店としての初めてのお仕事の依頼でした。

この時は、嬉しくて涙を流しながら皆で抱き合ったのをよく覚えているそうです。あまり大きな声では言えませんが、小嶋工務店創業 第1号のお仕事は、「トイレの修理」だったのです。頂いた代金も千円であったそうです。

しかし、それからはご紹介や、ご近所の方からの相談も増えていき、見知らぬ土地で、多くのお客様に助けて頂きながら「小嶋工務店」は少しずつ成長していきました。

1967年 現代表の智明が生まれる

period of development

1968

創業3年、
有限会社から株式会社へ。

創業三年目になる頃には「小嶋工務店は真面目で良い仕事をする」とご近所から言われるようになり、仕事も多くなってきました。

自宅兼作業場の庭先では手狭になってきた為、仕事場の土地を探し始めました。ようやくして決めた地が、現在の本社所在地です。1968年(昭和43年)に100坪を1,600万円で購入したそうです。

小金井市前原町に事業所を移し、その年に法人化して有限会社小嶋工務店を設立した。購入した100坪の土地に16坪の事務所と作業所を造り、算の妻は事務と電話番をして、算は営業と現場管理をしていました。

写真:社屋

増改築を含め八ヶ所の現場と営業を一人で担っていたそうです。大変だとは思わなかったようで、せっせと仕事に取り組んでいました。そんな努力の甲斐か、仕事は自然に多くなって来ましたので、社員も増えて組織化していったこともあり、1971年(昭和46年)に株式会社小嶋工務店に改称した。1972年から、地元での信用力を付ける為、関係官庁の指名入札への参加も始めていきました。

写真:社屋

創業から10年の飛躍。

昭和47年
建築業界で初めての15年保証制度を開始。
昭和49年
本社社屋を建て替え、1階に室内展示場をオープン。
昭和51年
多摩市桜ヶ丘「京王線聖蹟桜ヶ丘駅」に初めての営業所を開設。同年、本社隣に(株)小嶋産業を設立。(不動産事業)
昭和52年
武蔵村山市榎に土地300坪、建物延床面積600坪、新築同様の工場物件購入当社、木材加工工場として稼働。
写真:社屋
桜ヶ丘営業所

1975

1000分の1ミリの誤差も無い
高品質の量産を求める。

ある日、「大工さんが墨付けをしなくても家が建つ」そんな方法があることを耳にした。早速調べてみると、それは機械(プレカットマシーン)によるものでしたが、まだ現存せず、これから開発するとのことだった。機械は1台8000万円もの高額で、納期まで1年はかかるが、何としてもこの機械を入手したい気持ちでいっぱいだった。

元来、木造の建物は大工さんが墨を付け刻む(キザム)ことで家を建てていましたが、この工法は機械で木材をあらかじめ加工して使用するので、熟練の大工さんでなくても家が建てられる。

当時求めていたのは、「自由設計で高精密度のプレカットが出来る機械」。これらの条件で、静岡県の宮川鉄工様にお願いし、数十回に及ぶ打合せと1年の歳月をかけ、弊社で希望する機械を作っていただいた。

写真:工事現場

お客様と15年の約束

住宅需要が増え、建築ラッシュにより業績は好調だった。そのためサービスの質を高めることにも注力を進めていった。
雪国生まれの算は、新潟での修業時代から木造住宅は50年や100年は使えるものと思ってた。しかし東京に来て建物の構造があまりにもチャチなのに驚いたという。雪国の家は雪の重みに耐えなくてはならないのでとても頑丈。

小嶋工務店の家づくりも自信をもって提供しているという自負から、サービス部門を立ち上げ、15年の保証サービスを開始した。建築が完成されてからが真の始まりである。サービス部門は毎年サービス月間を設け、お施主様の快適な暮らしを維持し、守ることをお約束した。

算は“まごころ”という言葉が好きで、奉仕の精神で、日夜活動するようにと従業員に言い聞かせていた。

写真:工事現場

1978

誇りとなった、
オレンジ色の屋根瓦。

武蔵村山のプレカット工場誕生により、資材の一括購入から高精密度のプレカットマシンによる加工、製材、品質管理まで自社で一貫して行えるようになり、大工さんの人数や経験・技術に頼らずとも、質の高い木材を効率よく作り、短期間でたくさんの家を建築することが可能になりました。新築棟数は3年連続で年100棟を超えるなど、弊社が飛躍的に成長するきっかけともなりました。

写真:武蔵村山のプレカット工場

そして、多摩エリアで初めて50棟を超える大規模な総合住宅展示場「立川展示場」の建設が決まったのも、ちょうど弊社の躍進がはじまったのと同じタイミングでした。弊社はこの機に乗じて、更なる成長と発展を願い、工務店としては異例であった2棟のモデルハウスを同時出展することを決意。立川展示場は連日大盛況で、特にオレンジ色の瓦屋根が印象的だった洋風モダンなモデルハウス『パルテノン』は人気を博し、当時、本社近辺にはこのオレンジ屋根の家がたくさん建てられ、それを見るたびに社員一同、誇らしい想いで胸がいっぱいでした。創業から10数年、弊社の地道な家づくりが、大きく実を結んだ瞬間であった。

写真:オレンジ色の瓦屋根のモデルハウス

受け継がれた、
オレンジ色の誇りと願い。

弊社で現在も続けている地域清掃活動『オレンジday』の名称は、実はこのオレンジ色の瓦を由来にしています。この時代の誇りと喜び、そして今も変わらず小嶋工務店を支えてくれている皆様との絆を忘れず、これからも地元で愛される工務店であり続けようという強い想いを、忘れないために。

写真:地域清掃活動『オレンジday』
毎月部署ごとに本社周辺の清掃を実施しています

growth period

1981

RC事業部の飛躍と成長。

木造住宅の建築棟数が順調に増えていくなか、算はさらに事業拡大を目指し、1975年頃から着手していたRC(鉄筋コンクリート)建築の強化を計画。社寺建築・高層ビル建築専門のASCA事業部を設立し、関係官庁の指名競争入札にもあらためて力を入れ、着々と実績を上げていきました。

写真:RC(鉄筋コンクリート)建築、

府中市を中心に、老朽化したビルの建て替えや新築の高層ビル建設を一手に担い、売り上げは木造住宅を超えました。この時代の好景気の波に乗り遅れることなく、業績と社員数を拡大させていきました。

写真:社寺建築

1985

モデルハウスの建設ラッシュへ。

ASCA事業部の躍進と同じく木造住宅も棟数を増やし続け、複数の総合展示場にモデルハウスを出展。この年には三鷹展示場、1988年にはリニューアルした立川総合展示場あらため「立川サンシャインパーク展示場」に『パルテノンV』、1989年には八王子展示場に『パルテノンⅥ』、さらに世田谷、二子玉川、小平などの展示場にも次々とモデルハウスをオープンしました。

写真:立川展示場パルテノンⅤ、世田谷展示場
立川展示場パルテノンⅤ、世田谷展示場

また、1988年には、武蔵村山工場から改称した小嶋木材加工㈱に当時の最先端技術を導入し、コンピューター制御による完全自動プレカット化へと移行。加工精度と生産性がさらに高まり、弊社の業績を伸ばす、大きな下支えとなっていきました。

写真:小平展示場
小平展示場

1989

時代は昭和から平成へ…
小嶋工務店の黄金期。

社員数も100名となり、売上高も年々上昇していきました。さらにこの年には、現社屋である自社ビルを建設いたしました。新たに地上4階・地下1階の本社ビルが誕生したのです。時は昭和60年代から平成へ。順風満帆、小嶋工務店は絶頂期を迎えました。

写真:小嶋工務店の社員

1990

低価格競争の激化。
デフレ、バブル崩壊の足音。

RC事業の売上拡大やモデルハウス建設ラッシュ、そしてこの年には住宅のリフォームやメンテナンスを手掛ける㈱リフォームコジマを設立するなど、目覚ましい成長を続けていましたが、90年代以降、少しずつ陰りが見え始めました。

写真:小嶋工務店の社員が働いている様子

この時期、住宅業界は低価格競争が激化しデフレ時代に突入していました。質の高い丈夫な建物を造ることをモットーにしていた弊社は価格を極端に下げることはできず、日に日に受注が落ちていったのです。そして、同じころに忍び寄る、日本全体の景気を一変させ、長い不況の引き金となったバブル崩壊。小嶋工務店の低迷時代が、すぐそこまで迫ってきていたのです。

写真:小嶋工務店の建物

1992

ソーラーサーキットシステムとの、運命の出会い。

ローコストに対抗するには、初期投資がある程度かかっても高性能で快適、ずっと住み続けられる強さを持ち、長期的に見ればよりお得感のある家を作ること…そう考えていた、まさにその時でした。

現在でも弊社の住まいにおける温熱環境のベースとなっている、鐘淵化学工業㈱(現㈱カネカ)が開発した『ソーラーサーキットシステム』との、運命的な出会いがあったのです。

この頃に現代表の小嶋智明も小嶋工務店に入社、父である算と共に、新商品の導入を進めていきました。当時は内断熱(充填断熱)工法が主流で、まだ全く知られていなかった外断熱という言葉を世に広め、さらに季節により家自体が衣替えをして室温を調整するという画期的なシステムに、驚きそして心躍らせたことを、今でも思い出すと代表の小嶋は話します。

そして、特に素晴らしかったのは、「計画換気」を採用している点でした。

内断熱工法は壁の内部が結露しやすくカビ・ダニが発生してしまい、計画的に換気をしていない住宅では真菌性肺炎等になる方が増える、いわゆるシックハウス症候群が知られるようになっていたのです。ソーラーサーキットシステムは計画換気をいち早く搭載しただけではなく、室内の空気環境に対して具体的な数値を出し、快適で健康的であることの科学的根拠を明示した最初の工法でした。そしてそれは、2003年(平成15年)、建築基準法の改正で「シックハウス対策」が義務づけられるまで、10数年にわたり空気環境について時代をリードするのでした。

写真:この時代では珍しい高気密・高断熱仕様
この時代では珍しい高気密・高断熱仕様
写真:ソーラーサーキット工法を採用した当時のカタログ
ソーラーサーキット工法を採用した当時のカタログ

時代を先取る家づくりは、小嶋工務店のベーシックに。

また、ヤマトシロアリしかいなかった多摩地域にも、地球の温暖化と共に南部から広がったイエシロアリが生息するようになり、新たなシロアリの脅威にさらされる時代となった。

そのような中で、ヒ素系のシロアリ駆除剤がハウスメーカーの標準(今でも採用してる会社がある)であったこの時期に、ソーラーサーキットシステムはTMFS(ターミメッシュフォームシステム=目の細かいステンレスメッシュで物理的にシロアリの侵入を防ぐ工法)を標準で装備していました。㈱カネカの開発者が、オーストラリアのハイスクールで起きた、ヒ素系薬物の散布による子供達への皮膚害から既に現地では薬剤散布を禁止しているという事を聞き、日本の住宅のために薬剤を使わない防蟻工法を開発・ソーラーサーキットに採用したという。

これら壁内結露の問題や、計画換気の必要性、薬剤散布・塗布による防蟻の課題等、当事すでに建築雑誌では取上げられていても、一般のお客様には全く伝わっていませんでした。そんな時代であっても、15年後のスタンダードを常に見続けているのが、ソーラーサーキットシステムでした。算は売れる売れないということよりも、常に時代の先を行くものを作り、時にマニアック過ぎる事もあるが、我々地元の工務店と唯一同じ目線で商品を開発してくれたのが、㈱カネカだったのです。その感性に弊社は強く共感し、この年に提携、以降小嶋工務店の家のベーシックとなる、ソーラーサーキットシステムを導入することとなりました。

写真:シロアリ

period of decline

1995

住宅業界を震撼させた、阪神・淡路大震災。

平成に入り、デフレ、バブル崩壊に続き、さらに住宅業界を揺るがす出来事が発生した。阪神・淡路大震災である。

この時、最盛期を迎えていた在来工法(木造軸組工法)のハウスメーカーが、震災で破壊された木造住宅の写真を手に営業するハウスメーカーにことごとく敗れ去り、市場から退場させられてしまう事態となった。

現在では、RCや2×4、パネル工法のほうが強いと盲目的に信じている人は少なくなったものの、当事はこの映像や写真をもとに、「在来工法=地震に弱い」とマスコミに盛んに取り上げられ、かくいう在来工法を主としていた弊社も徹底的に叩かれる事となったのです。

相次ぐ災難により、当時乱立していた建築会社・ハウスメーカーはどんどん淘汰されていき、さらに追い打ちをかけるように、1997年には消費税が3%から5%に引き上げられ、消費が低迷。銀行の貸し渋りも始まっていた。

弊社では府中にソーラーサーキットシステムの宿泊体感住宅をオープン、高耐震性能住宅『ウィズ・サーティ』や、高気密・高断熱住宅のオリジナル商品を発表するなどで起死回生を図っていたが、すでに経営はギリギリのところでした。

写真:阪神・淡路大震災で倒れた建物、ソーラーサーキットシステムの宿泊体感住宅、高耐震性能住宅『ウィズ・サーティ』

1998

小嶋工務店の低迷時代へ。

RC建築の売上の激減、資金調達の困難、非効率な経営体制などが重なり、とうとう、小嶋工務店は低迷時代へと突入するのです。創業者としてここまで会社を牽引した算は代表を退任することになりました。紆余曲折を経ての一族経営の脱却、ASCA事業部の解体、関連会社の清算、株主の皆様の資本参加など、激動の、そして10年以上の長きにわたる再構築が始まります。

代表の小嶋はお客様の依頼一つひとつに誠意をもって対応しつつ、分厚い事業計画書を片手にあらゆる銀行へ奔走し、社内では事務用品の節約、自動販売機の廃止など小さなところから地道に経費削減を取り組む日々。再構築のために考えて書き溜めた提案書たちは、今も社の引き出しに戒めのようにしまっていると小嶋は話します。そしてこの中のひとつに、最も重要で早急に実施させた対策があった。弊社のために働く職人さんの意識改革でした。

写真:小嶋工務店の低迷時代へ。

「自分の子どもの家を建てる気持ちで」
職人さんたちと向き合った日

どんなに高性能で魅力的な間取りの住まいを設計しても、実際に手を動かす職人たちが、好景気時代の浮ついた気持ちのまま家づくりをしていては、すべてが台無しになってしまう。当たり前のことだが、工務店の一番の核は職人さんであるからこそ、最初に手を付けた改善項目だったのです。

小嶋はまず、研修として社に20名ほどの棟梁に集まっていただき、現状の不満を語らせてもらった。

『棟梁にお願いがあります、自分のお子さんの家を建てる気持ちでつくって下さい。会社として、今の皆さんの仕事ぶりに大いに不満を持っています。こちらがそう思うのですから、お客様はもっと感じていると思います。これからは当社の理想とする、“技術の小嶋”と言われる会社にしたい。もし、社の考えに賛同できないのであれば、出来る方だけでやって行きたいんです。こちらの考え方が間違っていると思う方は、どうぞ退席してください。』

実際これを聞いて部屋を出て行ってしまう職人さんも数名いたが、大半の棟梁は「俺達のどこが悪いのか言ってくれ、何が不満なんだ」と真剣に想いを受け止めてくれ、研修後は昼夜を問わず連絡が入り、毎日のように現場で話し合いは続いたと言います。

社長交代、外部企業の資本参加などで、社員や職人さんは船頭を無くした船のように、不安に思われていただろう。小嶋は申し訳なさをひしひしと感じていたが、それでも断固たる決意を心に秘め、一歩一歩着実に職人さんの意識改善をさせていった。

写真:職人さんたちと向き合った日

『一棟入魂』
お客様への感謝の気持ちを
忘れないように。

この研修が、現在も続いているCIS(Customer Satisfaction +Impression)研修です。第1回目は実質棟梁との対話となったが、その後弊社の現場で働く方全員に年2回にわたり、お客様の気持ちについて全員で学んでいる。

仕事は降って湧くものではない。家を作るという人生の一大事業をお任せ頂ける喜びと感謝の気持ちを必ず忘れずに、現場で働かせて頂こうという気持ちを、少しずつ皆とシンクロするようになっていったのです。

現会長の算はこの気持ちを『一棟入魂』という言葉に残し、今も全体会議で毎回語りかけ続けています。

写真:『一棟入魂』お客様への感謝の気持ちを忘れないように。

To overcome any obstacle

2005~

同業者の意識の高さに呆然。
このままでは、本当に終わる。

社員や職人さんだけではなく、当然経営陣にも大きな意識改革が必要であった。今までのように、丈夫で快適な“良い家”を、ただ漫然と建てていればいいという時代はすでに終わり、会社として新たに歩むべき道筋を見出せなければ、生き残ることはできない。それを改めて気付かされたのは、偶然参加したシンポジウムの場であった。

自分たちと同じく苦境に立たされていると思っていた同業工務店たちは、まったく違うステージにいた。いち企業としての、地域社会から日本、ひいては世界、環境までを見据えた多角的な経営戦略や、全社を挙げて目標に向かい常に前進しようとする意識の高さを、まざまざと見せつけられた。あまりのレベルの差に非常にショックを受けた。小嶋と共に参加した社員はなによりも悔しかったという気持ちで、会場を後にしたのでした。

写真:小嶋工務店の同業者。全国のソーラーサーキット加盟会社
全国のソーラーサーキット加盟会社

再起を賭けた、プロジェクトの発足。

自分たちも変わらなければ、このままでは本当に負けてしまう。終わってしまう…そう感じた焦りと悔しさを起動力に、弊社はこれまでにない、異次元の目標を設定しました。自分たちが今まで培ってきた経験や技術、地元に根付いたネットワークを最大限活用した新しい家づくりのビジネスモデルの構築。業界の金メダルとも言われる、『国土交通省 長期優良住宅先導事業』※に採択されること。

ここで発足したプロジェクトが、のちにソーラーサーキットシステムと並び、弊社の家づくりのブランドとなる『TOKYO WOOD』の誕生にもつながっていくことになった。

※「いいものをつくってきちんと手入れして長く大切に使う」というストック社会の住宅のあり方について、広く国民に提示し、技術の進展に貢献するモデル事業を国が公募し、優れた提案について事業の実施に要する費用の一部を補助する制度

写真:再起を賭けた、プロジェクトの発足。

プロジェクトの命運を分けた、ある社員の出現。

もともと弊社では多摩産材を多く使っていたため、地元の木を使った地産地消の家づくりを主軸にすることを決めていたが、それだけでは今まで採択された他の事業モデルと変わらない。その課題を打開する鍵となったのは、あきる野市にある有限会社中嶋材木店と提携を結び、さらなる地域社会への貢献と林業の活性化を図ること。

このプロジェクトの命運を分ける計画を成し遂げたのは、プロジェクトメンバーであったあるひとりの社員でした。

小嶋工務店を救う、“宝”はすぐそこに。

プロジェクト発足以前、社の再構築案のひとつとして、社内や工事現場での作業効率化を進めていた。その時、数年まったく改善できなかったことを、数ヵ月であっさりとやり遂げてくれたのが松野(現:建設部 取締役)でした。

小嶋はそれまで正直ほとんど会話らしい会話をしたことがなく、まったくノーマークの人物であったが、ふとしたきっかけで非常に優秀で行動力があり、物事を最後までやり遂げる強靭な精神力のある、弊社にとっての宝だとその時初めて気が付いたという。

低迷時代の弊社を照らす光となったのは、このプロジェクトと、もうひとつは優秀な人材の発見であった。本当に今更だが、きちんと社員一人ひとりの知識や才能と向き合い、あの辛い時期に社員にもっと頼れば、より早く社を再生できていたかもしれないと振り返る。

今はそれを教訓にして、何か新しいことをするときにはプロジェクトチームを結成し、リーダーに任せるようにしている。そうすることでリーダーのみならず、社員みんなの責任感が飛躍的にまして爆発的に成長し、結果的に会社も大きくレベルアップすると分かったからです。

写真:小嶋工務店を救う、“宝”はすぐそこに。
現:建設部取締役松野

2010~

創業以来、史上最大の偉業を実現。
すべてはここから始まった。

『国土交通省 長期優良住宅先導事業』は過去二度落選しており、小嶋も正直諦めかけていました。しかし新たに発見した優秀な社員たちとさまざまな会合に出席し、何度も悔しい思いを重ね、学び、そして、彼らを中心としたプロジェクトメンバーを結成し、毎日のように終業後集まって夜中まで話し合い、ようやく締め切り一時間前に提案書が出来上がり投函。満を持して三回目の挑戦を果たしたのです。

そして数ヵ月後、見事に採択(受賞)が決定。松野を筆頭にしたプロジェクトメンバー全員で涙し、弊社史上最大の偉業を成し遂げたことに歓喜した。

さらに、同年には多摩地域で活躍する中小企業の優れた技術や経営手腕を評価し、表彰する多摩ブルー・グリーン賞(経営部門)で、『多摩の檜で造る東京の家』が奨励賞を受賞。今では当たり前のように様々な受賞をしているが、すべてはここから始まり、その後、数々のメディアの方に取上げて頂けるようになった。

写真:創業以来、史上最大の偉業を実現。

2012~

そして『TOKYO WOOD』の誕生へ。

長期優良住宅先導事業に採択された、『多摩の木でつくる家~いえともプロジェクト2010~』では、東京・多摩で生産された桧や杉などの木材で家をつくり『地産地消』を続けることで、木々を適切に伐採し、山を維持管理し、イベントや勉強会を通して地域住民と森づくりに取り組み、次世代に向けて新たに苗を植えて育てるという、森林の健全な木材生産サイクルを確立するものでした。自然環境を維持しつつ、「東京の森を守り、東京の林業の活性化」にも貢献するプロジェクトです。

そして、さらにこの事業拡大を図り、多摩地域の林業家・製材業・プレカット工場・小嶋工務店がひとつになり、一般社団法人TOKYO WOOD普及協会を設立。独自の基準で厳選した高品質な多摩産材を『TOKYO WOOD』と名付けてブランド化し、省エネ・エコなソーラーサーキットシステムと合わせることで、東京に住む人々の暮らしに合った“メイドイントーキョーの家づくり”を目指していった。

写真:そして、『TOKYO WOOD』の誕生へ。

2013~

時間も手間もかかる天然乾燥を、
あえて選択。

小嶋の挑戦は始まったばかり、実現させるために奔走していた。『TOKYO WOOD』というブランドを確立し、普及させるために定めた品質基準は、関係者間でも難色を示されたほど厳しいものだった。その中でも特にこだわったのは、一般的な人工乾燥は行わず、天然乾燥を徹底すること。その名の通り自然に木材を乾燥させる方法で、非常に時間がかかり、場所もとる。それでもこの方法であれば、木の油脂成分が流れ出ずしなやかさと粘り強さを維持し、木目や色艶、香りなど、木が本来持つ魅力をそのまま活かすことができる。そこまでしたうえで、さらにグレーディング(品質検査)マシンで一本一本測定。含水率は20%以下、ヤング係数(強度)は桧でE90以上、杉はE70以上とし、数値で証明された確かな品質の木材のみ、『TOKYO WOOD』として採用した。

写真:天然乾燥の採用を受け入れてくれた中嶋材木店 中嶋社長
天然乾燥の採用を受け入れてくれた中嶋材木店 中嶋社長

『TOKYO WOOD』を
実現するための覚悟。

しかし、『TOKYO WOOD』の品質や性能にこだわればこだわるほど、基準に満たない木材が増え、製材所の負担になることが課題となった。そこで小嶋はこれら木材も含めてすべて買い付け、胴縁や間柱、建具、床材などに余すことなく活用することを決意したのです。

『TOKYO WOOD』を永続的に供給するためには、木を守り、育て、森を管理する林業家や、豊かな経験と熟練の技術を持つ地域企業との連携が不可欠となる。その中で小嶋工務店がなすべきことは、“出口(市場・需要)をしっかりとつくること”に尽きる。『TOKYO WOOD』の家を作ることで、本来捨てる部分であった木に価値をつけて需要を増やしていくことも弊社の担うところであり、その覚悟が必要だった。

写真:『TOKYO WOOD』を実現するための覚悟。

stable period

2014~

『ガイアの夜明け』放映。
低迷時代の終わりが、見えた。

『TOKYO WOOD』で家を建てて暮らす方々も私たちと共に地域に根付き、山や森、木ともつながりを持ち、何世代にわたり快適に暮らし続けるという、サスティナブルな社会形成までデザインしたこのプロジェクトは、大手ハウスメーカーやデベロッパーでは成しえることはできない、地元密着の企業ならではの取り組みとなった。

そしてこの取り組みは新聞や雑誌などさまざまなメディアで紹介され、特にテレビ東京の『ガイアの夜明け』での放映は、さらに多くの皆様にTOKYO WOODを知るきっかけとなった。プロジェクトに共感して頂いた方々からの問い合わせが急増し、確かな手ごたえを感じられるようになっていった。

長きにわたり辛く、苦しく、そして社員や職人さんと起死回生を信じてがむしゃらに走り続けた低迷の日々に、終わりが見えた瞬間であった。

写真:『ガイアの夜明け』放映。低迷時代の終わりが、見えた。

2020~

『0から1』を『1から10へ』
次世代がTOKYO WOODを進化させる。

小嶋をはじめ、松野や古株の社員がつくりあげたブランドは、少しずつ成長し『TOKYO WOOD』の家がはじまってから900棟のお客様にお選びいただき、1,000棟を目前というところにまできました。ここまではTOKYO WOOD誕生の物語です。

この10年で小嶋工務店に新たに入社する社員も増えた。その多くの志望動機にはTOKYO WOODに共感し、この家づくりに関わり仕事をしたいと話す人が多くいた。そんな若手社員に小嶋は当時のことを振り返りながら、よく話しをします。かつての熱い想いをもった先輩社員のように、自分たちも挑戦しようという若手社員が増えたのです。

そして若手社員だけの力によって2020年環境省グッドライフアワード環境大臣省優秀賞に採択をされるまでになりました。スピーチの言葉にもある通り、私たちの家づくりは完成していない「まだ夢の途中」なのです。社のスローガンである『東京の森と共に100年先を見据えて』という想いを持って、建築という技術でお客様の理想の暮らしを叶えてまいります。そして東京の家と森を育てていきます。

写真:次世代がTOKYO WOODを進化させる。

丈夫な家造りを常に心がけ、今日まで
事故が無く来たことが本当の保証だと思っております。
当社で施工した建物が、今後とも皆様のお城として、
末永くお役に立ちますことを念じております。

写真:小嶋工務店とオーナー様
1965
(昭和40年)
小嶋工務店創業
府中市新町を拠点に注文住宅の施工開始
写真:社屋
1968
(昭和43年)
有限会社小嶋工務店を設立
小金井市前原町に社屋建設
写真:社屋
1971
(昭和46年)
株式会社小嶋工務店へ改組
1972
(昭和47年)
小金井市前原展示場オープン
(昭和40年)農林大臣(故桜内義雄氏)が同施設視察)15年保証制度の開始
1974
(昭和49年)
本社屋建替え
屋内ショールームオープン
1976
(昭和51年)
聖蹟桜ヶ丘営業所オープン
1977
(昭和52年)
武蔵村山に木材加工工場建設
プレカットマシーン導入
1978
(昭和53年)
立川展示場
2棟出展オープン
1988
(昭和63年)
立川展示場建替え
設計CADシステム導入
1990
(平成2年)
株式会社リフォームコジマ設立
1991
(平成3年)
立川展示場建替え
払込資本金8,000万円に増資
1992
(平成4年)
(株)カネカと提携
ソーラーサーキット(SC)システム導入
1996
(平成8年)
SC宿泊体感住宅(府中)建設
2000
(平成12年)
資本金9,900万円に増資
2001
(平成13年)
カネカのSC特約工務店に登録
2003
(平成15年)
本社ショールーム
リニューアル
2005
(平成17年)
NPO法人 住まいの構造改革推進協会会員登録
創業40周年(7月)
2006
(平成18年)
立川第2展示場建替
免震外断熱住宅「木暖(モダン)」発表
2009
(平成21年)
長期優良住宅を開始する。
基本ディテールの改訂版の作成を開始する。
(株)小嶋工務店 代表取締役 小嶋 智明 就任
(株)リフォームコジマ 代表取締役 小嶋 智明 就任
(株)小嶋産業 代表取締役 小嶋 智明 就任
秋川木材協同組合と提携し多摩産材の使用を開始する。
2010
(平成22年)
国土交通省長期優良住宅先導事業に採択される。
多摩ブルーグリーン経営部門にて『多摩の檜で造る東京の家』が奨励賞を受賞する。
長期優良住宅 設計性能評価、建設性能評価を推進する。
2011
(平成23年)
東京都多摩産材普及拡大事業のコンペに当選し立川展示場を建替えする。
多摩ブルーグリーン経営部門にて『多摩の木で造る東京の家』が優秀賞を受賞する。
型式認定劣化対策等級3を取得する。
戸建住宅全棟多摩認証材(東京の木)を構造材に使用する。
2012
(平成24年)
一般社団法人TOKYO WOOD普及協会を設立する。
国土交通省補助金事業地域型住宅ブランド化事業採択
企業理念を『一生快適に暮らせる家を造る。』にする。
多摩ブルーグリーン賞経営部門奨励賞3年連続受賞する。
多摩産材使用率4年連続NO.1
『建築知識』執筆
長期優良住宅 設計性能評価、建設性能評価を標準化する。
2013
(平成25年)
国土交通省補助金事業地域型住宅ブランド化事業2年連続採択
多摩ブルーグリーン賞経営部門奨励賞4年連続受賞する。
長寿命住宅供給システム認定東京都で初の取得(一般財団法人ベターリビング)
多摩産材使用率5年連続NO.1
沖倉製材所・中嶋材木店と天然乾燥に取組む。
『東京新聞』に掲載される。
2014
(平成26年)
『たまの力』掲載
長期優良住宅施工250棟突破
土交通省補助金事業地域型住宅ブランド化事業3年連続採択
多摩産材使用率6年連続NO.1
(株)小嶋工務店、(株)リフォームコジマ合併をする。
小嶋工務店内にリフォームコジマ事業部を新設する。
多摩産材からTOKYO WOODへ印字を移行する。
『ガイヤの夜明け』でTOKYO WOOD普及協会が放映される。
2015
(平成27年)
小金井市商工会冊子掲載「躍動する企業20社」
日刊工業新聞掲載
「TOKYO WOOD体感モデルハウス小金井」工事開始
国土交通省補助金事業地域型住宅グリーン化事業4年連続採択
多摩産材使用率7年連続NO.1
小金井市「元気な経営者20選」に掲載
ヒューマガ掲載
日経新聞社取材を受けました。
工務店新聞掲載
首都大学東京ビジネススクールで講演予定2回目。
多摩ブルーグリーン賞応募しました!
『うみ やま あひだ』トークイベント講演
14年連続黒字達成。
写真:社屋
2016
(平成28年)
TOKYO WOOD宿泊体感住宅モデルハウスオープン
日刊木材新聞掲載『TOKYO WOOD』
BIZ Life Style掲載
HOMES PURESS掲載
テレビ東京『リトルライフトーキョー』
TOKYO WOOD小金井宿泊体感住宅BELS☆☆☆☆☆取得
国土交通省補助金事業地域型住宅グリーン化事業5年連続採択
国土交通省 住宅ストック維持・向上促進事業のうち
良質住宅ストック形成のための市場環境整備促進事業 採択
日刊木材新聞 掲載
日本が誇る伝統と挑戦の革新企業掲載
東京で建てる注文住宅(SUUMO)『第1回社長特集編』掲載
日本住宅新聞にTOKYO WOOD普及協会が一面で掲載。
多摩産材使用率8年連続NO.1
2017
(平成29年)
東京都木の香る多摩産材普及事業 採択(4/7)
日刊木材新聞掲載(1月・3月)
TOKYO WOOD小金井分譲全棟BELS☆☆☆☆☆取得
SUUMO東京の注文住宅 匠のココロ(社長特集第一弾)掲載
NHK『シブ5時』取材、4/12放映
ソーラーサーキット施行棟数NO.1
TOKYOMXテレビ「東京クラッソNEO!」◆6/18
『小池都知事・多摩スペシャル」に出演
多摩産材普及拡大事業 新製品応募にTOKYOWOODの階段を提案
国土交通省補助金事業地域型住宅グリーン化事業6年連続採択
テレビ朝日『ハナタカ』に出演
2018
(平成30年)
東京都 木の香る多摩産材事業 三鷹展示場オープン
ハウジングトリビューン取材掲載
日刊木材新聞取材掲載
(株)小嶋産業 再始動(不動産事業参入)
J:COM TV(木の香る多摩産材三鷹展示場)
新建ハウジング取材
ミライイエ講演
FSC取得(世界森林認証)
SGEC取得(日本森林認証)
小金井小学校ゲストティーチャー2年連続
国土交通省補助金事業地域型住宅グリーン化事業7年連続採択
2019

(平成31年 令和元年)
フォレストファミリー(立川新展示場)グランドオープン
立川展示場建替フォレストファミリーグランドオープン
国土交通省補助金事業地域型住宅グリーン化事業8年連続採択
東北工務店への木材ブランド開始
(株)小嶋産業土地買取事業開始
SUUMO工務店ランキング1位獲得
小金井小学校ゲストティーチャー3年連続
日刊木材新聞掲載
首都大学東京の高橋准教授執筆『ソーシャル・イノベーションを理論家する』ビジネスモデル掲載
モノコレ2019講師
2020
(令和2年)
東京都信用金庫協会 経営優秀賞受賞
国土交通省補助金事業地域型住宅グリーン化事業9年連続採択
グッドデザイン賞一次選考通過
東北工務店への木材ブランド/経営コンサル事業
日刊木材新聞掲載
SUUMO特集号3月掲載
次世代経営者勉強会講師
日経ホームビルダー取材
累計4500棟となりました。
グッドデザイン賞受賞(ビジネスモデル部門)
ウッドデザイン賞受賞(ソーシャルデザイン部門/コミュニケーション分野/ビジネスモデル)
2021
(令和3年)
国土交通省補助金事業 地域型住宅グリーン化事業 10年連続採択
小金井・府中ハウジングステージに当社5棟目のモデルハウスオープン
日本テレビ『ヒルナンデス!』(モデルハウスで最新住宅学ぶんデス)で新モデルハウスが紹介されました。【6/29】
テレビ東京『なないろ日和』(省エネ生活、どうする?)で新モデルハウスが紹介されました【7/8】
環境省グッドライフアワード 環境大臣賞 優秀賞受賞
2022
(令和4年)
国土交通省 安定的な木材確保体制整備事業 採択
TBSテレビ『ラビット!』『最新モデルハウスで住宅事情を学ぶ放映』
新建ハウジング掲載
リフォーム新聞掲載
宅産業新聞掲載
刊木材新聞掲載
環境省 グッドライフアワード優秀賞受賞
2023
(令和5年)
ソーシャルプロダクツ・アワード受賞
社長名鑑掲載
『TOKYO WOOD BEAM(多摩産材無垢梁材)製造開始』
『TOKYO WOOD Premiumシリーズ』絞り丸太、無垢一枚板の販売開始
ハウス・オブ・ザ・高断熱窓2022 by APW 受注総窓数部門 東京第1位 表彰