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社長ブログ

小嶋工務店五十年史 その7

2016.07.22

おはようございます、小嶋です。

今日は朝方から打ち合わせが続いてしまい、ブログの更新ボタンを押し忘れてしまいました。

それから、今朝方、ブログのアクセス数を見たら驚いてしまいました。

なんと何時もの倍以上の数になっていて一生懸命書いていて良かったと嬉しくなりましたね、ホンとにありがとうございます、文章力が無く詠みづらいと思いますが、お付き合い頂ければ幸いです。

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昨日はの三上プロジェクトでは、いよいよ締め切りの迫った、『多摩ブルーグリーン賞 経営部門』の提案書作成について会議が開かれました。

2010年から応募に参加している、『多摩ブルーグリーン賞 経営部門』ですが、今回7回目の応募になります。

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(2011年 経営部門優秀賞を受賞して式典に出席した、会長と高井部長) (昨年は前田係長率いるプロジェクトチームで見事受賞致しました)

過去、優秀賞を始めとする7回参加中、私が締め切りを忘れた時を除き、全て受賞していますが、

今回は、前回のメンバーに新卒の石塚さんが加わり、現在提案書を作成してくれています。先輩たちがなしえなかった最優秀賞を是非とも受賞して欲しいですね。

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さて、今回の弊社の歴史は、絶頂期からの転落です...

時に昭和60年代、弊社は絶頂期を迎えていました。

社員数も100名を突破し、売上高も年々上昇し、売上高45億円を突破しまさにバブル真っ只中といった感じでした。

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近所に次々とビルを建て、展示場の出展を次々に行い、新年会や忘年会には芸能人が来る等、まさにこの世の春といった感じでした。

10台後半を迎えた私はバイトに明け暮れ、焼肉屋さん、中華レストラン、ゴルフ場の整備等、日夜働いていました(笑)

この時、学校で知り合ったのが、現在弊社の専務取締役をしている池田でした。

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学校に行かない私と違い、真面目に学ぶ池田は何時も成績上位に顔を出しており、

何となく池田(名前で書きます、言い慣れないので(笑))と波長が合い、茨城だか栃木だか今も理解していない栄(池田専務)の実家で入る五右衛門風呂が楽しく何度か遊びに行きました。

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栄の実家が新潟の田舎に似ていていることもあり、とんと行かなくなった新潟の田舎を懐かしみながら遊びに行っていました。

昭和から平成に変わる60年代半ばに、聖蹟桜ヶ丘の営業所を売却したお金で、本社をでかいビルにすると、会長が話していた事は何となく覚えていますが、既に兄が跡継ぎと決まっており、私には全く興味の無い話となっていて、中華レストランのオーナーや、ゴルフ場のオーナーからも内で働けよっと誘われ、それもいいかとあまり将来像を描く事はしない日々を送っていました。

そんな絶頂期の弊社に、オイルショック以来の大きな不況の足跡が忍び寄っていました。

いわずと知れたバブルの崩壊です。

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(小金井市で毎年開催されている阿波踊りです。)

同じ時期、バイトばかりしていた私の将来を不安視したのか...

ある日、会長がバイト先の中華レストランに何処で聞きつけたのか現れ...

そのまま連れて行かれてしまいました(笑)

連れて行かれた先は、国分寺市にあるハウスメーカーの下請けをしていた工務店の飯場小屋...

飲食関係の仕事をしていた事が多かった私でしたが、不衛生極まりない事務所につれて行かれ、明日から此処で働けと会長に言われ、面接をうけました。

書けば書くほ情けない社会人への入り口ですが、当事の私は...

話だけ聞いて違う道への事しか当事は頭にありませんでした(笑)

現在、新卒の子達に偉そうな事を話していますが、就職活動をまじめにして、働いてくれている皆を心から尊敬しますね、私と比べて(笑)

翌日出社すると、竹谷部長から、おい、まずこれを洗いなさいっと現場スリッパ50個ぐらいの掃除、事務所にある残材置き場の整理と、正直、飲食関係で清潔な身なりを何時も心がけていた私には、とても絶える事は出来ない職場環境でした...

今思えば、甘ったれた根性を叩きなおそうとしてくれた、竹谷部長の優しさだったと感じますね...

ホンといい人で大好きな方でしたから...

そして職場を紹介してくれたのが、㈱小林銘木の今はお亡くなりになった会長でした。

そして後にこの小林会長からも多大な教えを受けました。

小林会長に恥を欠かせてはいけないと思い、結構がんばって働いたと思いますが、当時の私ですから、やらかす事も多々あり竹谷部長はホンとに大変だったと思います。(笑)

働いてしばらくすると、地鎮祭、上棟式に連れて行かれ、景気が良かった事も幸いして、出席するたびに御祝儀を頂き、ボーナスまで支給され...

この時同期で入った男とも何となく仲がよくなり、プライベートでも遊ぶようになった事から、自然とその職場に居つくようになってしまいました。

そして、そんな私にもスイッチが少しずつ入り、3年目には現場を任されるようになっていきたのが元号が丁度変わった平成の世になってからでした。

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(平成元年竣工の現在の本社ビル)

ある日、府中の多摩信さんの前にあるラーメン屋さんで食事をしていると、天皇陛下が崩御されたとテレビで流れ、昭和の時代に終わりを告げましたが、故小渕首相が『平成』の文字を披露した時も、あ、そうなんだと感じるほどでした。

バブル崩壊の不況風が、月日を追うごとに現れ始め、ビル関係だけで30億ほどの売上があった弊社も、平成6年頃には、ぱったりとビル関係の仕事は無くなっていました。

この時、依然勤めていた会社の経営者の方もそうですが、また景気は良くなるから、こんなはずじゃない、何故なんだと、月日を重ねる度に状況は悪化し、大胆な改革を素早く出来なかった会社は次々と退場する事になりました。

株価も3万円を越えていた状態から、7千円台まで落ち込み、この当事、ゴルフ場や不動産に投資していた、にわか投資家が大混乱になりました。

各言う弊社の会長も、ゴルフ場を購入していましたが、数千万円で購入したゴルフ場が紙くず同然となったりと汗して積み上げた資産の大半を吐き出す事になりました。今思えば、誰もが時代に酔いしれ、日本の経済の力強さを疑いもせず生きた光り輝いた時代だと思いますが、この時代を経験しない、次の世代は、暗黒の10年と言われる大不況に立ち向かっていかなければいけない状況になりました。

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価値を見抜く力

絵画に億の値がついたり、時計に数千万を費やすバブル時代、こうした事に眼もくれず会社の繁栄を着実に伸ばしたのが、私を下請けの工務店に紹介してくれた、㈱小林銘木の小林会長でした。もうお亡くなりになりましたが、御生前、小林会長からこんな話を聞いた事がありました。

『智君ね、俺はケチだケチだと言われているが、見てみろ最後は俺の会社が一番いいだろ、毎年コツコツと会社の利益をあげれば、10年経ったらこんなに差がでるんだ、だから何時も物を買う時は、10年先を考えて買うんだ、解かったか』っと...

その当事は、あまり心に響きませんでしたが(すいません)、その後役員となり社長となった時思い出した言葉ですね。

予測行動は数値を作る

この言葉はその後、その会社のF専務から懇々と言われた言葉ですが...

『毎年2000万円の利益を上げる会社と、毎年2000万の赤字を出す会社、10年後には4億円の差がでる、だから何時も経費は×10年で価値を考えなさい、10年後に笑われるか、笑うのか選ぶのは経営者です』とも言われました。

誰が聞いても当たり前の言葉、でも何故かこの言葉は会社の資金を扱うようになっていた10数年前、心に響き渡りましたね。

正直、年配者の話は、ほぼ聞く耳持たずの私でしたが、時を経てキャリアの中で得た根拠ある先輩の言葉は、経営をする側になり響き渡りました。

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(私より一年早く入社していた高井先輩と、その数年前に入社していた松野建設部長の入社したての頃です。)

その後、弊社の経費削減プロジェクトを10数年前取り入れた時、全体会議で何時も、10年でいくら削減とか、10年でいくら得するっと、小林会長やF専務の言葉を引用して語り続けました。

思い返せば、結構恵まれていたのかもしれません、私が皆心配だったのか(笑))、ホンとに多くの先輩達に教わりました。

真面目に勉学に励んでいれば学校で教わるのかも知れませんが、キャリアの中から得ている生きた言葉を様々な先人から聞けた事は、恵まれていましたね。

今となっては、心からありがたいと感謝の気持ちでいっぱいになっています。(遅すぎですね(笑))

ケチと節約は違う、ケチと考えてお金使う人も違う、皆がお金を費やしている時、お金を出し惜しみする人を総じてケチと呼びますが、その行為に対して価値を見出せないから使わないと今は思いますし、その時に流されない意思の強い方だと思いますね。

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(入社1年目の私ですね。)

激動の平成初期、バブル崩壊、生産緑地改正、銀行の不良債権問題等、次々に襲ってくる不況の中、弊社はビル部門の売り上げが大幅に減りいよいよ窮地に追い込まれていきましたが、そんな事は全く感じていない、私はいよいよハウスメーカーの下請けの工務店、ディーラーの営業担当を7年勤め、弊社に入社させて頂くことになりました。

時代は、絶頂期から経費削減、人員削減と、リストラという聞きなれない言葉が当たり前のように週刊誌や新聞に取上げられ、右肩上がりの日本経済が大きく、沈み始めていました。

弊社でも、100人を越える社員が在籍していましたが、徐々に数を減らし、そんな中、私の兄が社長に就任する事になったのが、平成も二桁になる時代でした。

つづく

 

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